1930年代末から1940年代にかけてソ連国家の本質をめぐって闘わされた、アメリカ・トロツキスト内部の論争文献を訳出。すべてが本邦初訳。
1925年12月にトロツキーが元囚人と元流刑者の協会の全国大会で、1905年革命の20周年を記念して行なった演説の全訳。未邦訳。
『科学的社会主義』2023年5月号から連載しはじめたトロツキー伝、「ペンと剣――トロツキーとその時代」の第1回目のPDFファイル
1992年に発行された『トロツキー研究』の第2号(特集 社会主義と民族問題)。今日、2022年に起きたロシアのウクライナ侵攻をめぐって、改めて社会主義と民族問題との関係が問われている今日、1920年代初頭に起こったグルジア問題をめぐるレーニン最後の闘争をともに戦ったトロツキーと(後の)左翼反対派の人々の闘いの記録を特集。
トロツキー没後80年を記念して『週刊かけはし』に書いた論文。その後、加筆修正の上、『「共産党宣言」からパンデミックへ』(柘植書房新社)に収録。ここにアップするのは、さらに若干の修正を施したもの。
日本で最初に翻訳されたトロツキーの文献は『過激派と世界平和』(英語原題『ボリシェヴィキと世界平和』)(1918年)だが、この文献の翻訳をめぐるさまざまなエピソードを紹介。
1991年8月のソ連共産党の解散を受けて、それをもたらした内的力学を分析し、社会主義の展望を明らかにした論文。ある左派系の雑誌から原稿を依頼されて書いたが、ゴルバチョフを批判しすぎているという理由で没にされた。
トロツキー没後80周年を記念して、トロツキーと戦前の労農派知識人との関係について論じた論文。発表時より大幅に加筆。当初、『トロツキーと戦前の日本』という著作に収録する予定だったが、全体の分量が多くなりすぎて、収録を断念し、その代わり、このAcademiaにアップすることにした。
「1905年革命100周年」を記念した『トロツキー研究』第47号
1925~27年の第2次中国革命は、スターリン=ブハーリン派の支配するコミンテルンの誤った指導により、蒋介石による中国共産党の大弾圧に終わった。この問題に対してはトロツキーとトロツキストはそれ以降何度も繰り返し取り上げている。しかし、一九三〇年以降においてトロツキー自身が行なった説明には明らかにいくつかの不正確な点がある。トロツキーは事後的に、自分たち左翼反対派が最初から一貫して正しく事態を把握していたかのように述べているが、それは資料では証明できない。本稿はその点を中国革命...
more1925~27年の第2次中国革命は、スターリン=ブハーリン派の支配するコミンテルンの誤った指導により、蒋介石による中国共産党の大弾圧に終わった。この問題に対してはトロツキーとトロツキストはそれ以降何度も繰り返し取り上げている。しかし、一九三〇年以降においてトロツキー自身が行なった説明には明らかにいくつかの不正確な点がある。トロツキーは事後的に、自分たち左翼反対派が最初から一貫して正しく事態を把握していたかのように述べているが、それは資料では証明できない。本稿はその点を中国革命をめぐる主要な3つの論点に即して解明する。本稿はもともと、『トロツキー研究』第70号に掲載されたもので、その後、大幅加筆の上、『トロツキーと永続革命の政治学』第5章に掲載したが、今回、Academia にアップするにあたって、さらなる加筆修正を行なった。
1921年初頭に起きた悲劇的なクロンシュタット事件の100周年によせて、『科学的社会主義』2021年2月号に掲載されたもの。
『トロツキー研究』第16号。「特集解題」は、今日の研究水準から見ても画期的な内容。1903年の第2回党大会におけるボリシェヴィキとメンシェヴィキとの分裂をめぐる後世の神話を完全に粉砕しています。
2019年3月に、『ヘゲモニーと永続革命』の出版を記念して行なわれた学習会での講演を起こしたもの。若干の加筆と修正をほどこし、注を加える。
トロツキー没後80周年を記念したミシェル・レヴィの論文。2020年8月に『インターナショナル・ビューポイント』に掲載された英訳の全訳。
1930年代半ば、当時ソ連を追放されて「ビザなき地球」をさまよっていたトロツキーと、フランスの著名な作家アンドレ・ジッドとのあいだには、ささやかな「交流」があった。「ソ連の友」の一人であったジッドが1936年にソ連を公式に訪問した時、最初はソ連を賛美するつもりだったのに、そこでの全体主義的現状を目にして、しだいに批判的になっていった。そのことをフランスに帰国してから出版した『ソヴィエト旅行記』で率直に書き記した。それに対して、フランスのスターリニストは猛烈な批判を浴びせた。逆...
more1930年代半ば、当時ソ連を追放されて「ビザなき地球」をさまよっていたトロツキーと、フランスの著名な作家アンドレ・ジッドとのあいだには、ささやかな「交流」があった。「ソ連の友」の一人であったジッドが1936年にソ連を公式に訪問した時、最初はソ連を賛美するつもりだったのに、そこでの全体主義的現状を目にして、しだいに批判的になっていった。そのことをフランスに帰国してから出版した『ソヴィエト旅行記』で率直に書き記した。それに対して、フランスのスターリニストは猛烈な批判を浴びせた。逆にトロツキーは、ジッドが「ソ連の友」としてソ連擁護をしていたときには、現実に目を閉じていると批判していたのだが、秘書であるジャン・ヴァン・エジュノールから送られて『ソヴィエト旅行記』を読んだトロツキーはそれに深い感銘を受け、各論文で何度個々の著作に肯定的に触れるようになる。しかし、両者は結局一度も会わなかったし、直接、手紙を交わすことさえなかった。本稿は、1930年代半ばの大粛清時代にその反動性の頂点を迎えるスターリニズム批判を介して生じた、トロツキーとジッドの間接的な「交流」について、2019年に新訳が出されたジッドの『ソヴィエト旅行記』(光文社古典新訳文庫)と同じ年に文庫版が出されたエジュノールの回想録『亡命者トロツキー』(草思社文庫)での記述を手がかりに書き記す。
2017年11月に日本で開催された1917年革命100周年の記念シンポジウムにおける報告。ロシア革命は、その巨大な規模、その地理的影響、長期的な歴史的インパクトなどの点で、18世紀のフランス革命や1848~49年革命などをはるかに凌駕する一個の世界革命、より正確には、100年にわたる時代の流れをつくり出したという意味で「世界史的革命」であったことを明らかにする。この歴史的インパクトは、1968年革命においてついには欧米中心諸国にまで達するが、そこでの敗北を通じて衰退期に入った...
more2017年11月に日本で開催された1917年革命100周年の記念シンポジウムにおける報告。ロシア革命は、その巨大な規模、その地理的影響、長期的な歴史的インパクトなどの点で、18世紀のフランス革命や1848~49年革命などをはるかに凌駕する一個の世界革命、より正確には、100年にわたる時代の流れをつくり出したという意味で「世界史的革命」であったことを明らかにする。この歴史的インパクトは、1968年革命においてついには欧米中心諸国にまで達するが、そこでの敗北を通じて衰退期に入った。21世紀は、この革命の偉大な教訓を学びつつも、新しい展望、新しい方法を開いていかなければならない。
トロツキーの日本論を、ロシア革命前の日露戦争論から最晩年の「田中メモ」までを概観し、トロツキーの日本論の強みと弱みの両方を紹介。『トロツキー研究』第35号に掲載したものに大幅に加筆。
トロツキーの生涯を簡単に振り返りながら、その第三世界論と植民地革命論の軌跡について明らかにする。『トロツキー研究』第31号(2000年)所収の特集解題にかなりの加筆修正を加えたもの。
私がグラムシについて書いた最初の論文。『ヘゲモニーと永続革命』(社会評論社、2019年)に未収録。
2001年に発行された『トロツキー研究』第35号のPDF
1936~39年のスペイン革命とその最終的敗北は、1920年代半ばにおける中国革命の敗北と並んで、ソ連の運命と世界の運命を大きく左右する大事件だった。そして、どちらにおいてもスターリン指導下のコミンテルンは、1917年のロシアにおいて採用された永続革命の路線ではなく、メンシェヴィキの路線を追求した。そしてそれこそが敗北の最大の理由の一つだった。『トロツキー研究』第22号(1997年)に掲載した「特集解題」を大幅に加筆修正したもの。
トロツキーが1920年代後半以降にスターリン=ブハーリンの一国社会主義論を批判したことはよく知られている。しかし、その批判には2つの異なった側面があった。1つは、世界革命と切り離して一国だけで社会主義を建設しきることができるという議論に対する批判であり、2つ目は、世界市場と切り離して、ロシア一国の経済的資源だけで高度な社会主義が建設することができるという議論に対する批判である。トロツキーはこの2つの側面を共に批判するようになるのだが、この2つは同時に主張されたのでも、同程度に...
moreトロツキーが1920年代後半以降にスターリン=ブハーリンの一国社会主義論を批判したことはよく知られている。しかし、その批判には2つの異なった側面があった。1つは、世界革命と切り離して一国だけで社会主義を建設しきることができるという議論に対する批判であり、2つ目は、世界市場と切り離して、ロシア一国の経済的資源だけで高度な社会主義が建設することができるという議論に対する批判である。トロツキーはこの2つの側面を共に批判するようになるのだが、この2つは同時に主張されたのでも、同程度に主張されたのでもなかった。この2つの側面がしだいに結合していくのは、トロツキー派と主流派とのあいだの直接的な論争がなされなかったいわゆる「幕間」の時期(1925~1926年前半)においてである。本稿は、この複雑な過程を1次資料にもとづいて丁寧に解明している。
『トロツキー研究』第13号の特集解題に大幅に加筆修正したもの。第2インターナショナルの中で、ローザ・ルクセンブルク、カウツキー、ヒルファディング、プレハーノフらと並んで最も優れた理論家の一人であるヘルファント・パルヴスとトロツキーおよびロシア革命との関係について論じる。またそれを通じて、トロツキーの永続革命論が同時代人たちのロシア革命論とどの点で異なるのかを明らかにする。
1920年代にロシアのすぐれた経済学者コンドラチェフは、約50年周期の「大循環」の存在を統計的に示すとともに、その物質的基盤を長期的な償却期間を持った基礎的資本財(インフラストラクチュア)に見出した。これは一般に「長期波動」論として知られる。しかし、コンドラチェフが長期波動について論じる1年前に、すでにトロツキーはコミンテルン第3回大会において、世界資本主義の約140年のトレンドを分析して、その中に10年周期の景気変動とは異なる、大きな成長率の変化をともなった「諸段階」を見出...
more1920年代にロシアのすぐれた経済学者コンドラチェフは、約50年周期の「大循環」の存在を統計的に示すとともに、その物質的基盤を長期的な償却期間を持った基礎的資本財(インフラストラクチュア)に見出した。これは一般に「長期波動」論として知られる。しかし、コンドラチェフが長期波動について論じる1年前に、すでにトロツキーはコミンテルン第3回大会において、世界資本主義の約140年のトレンドを分析して、その中に10年周期の景気変動とは異なる、大きな成長率の変化をともなった「諸段階」を見出し、それにもとづいて、1920年代における世界資本主義の動向と革命の展望について論じていた。そこでのトロツキーの時期区分は、後にコンドラチェフが複数の大循環を提示した際の時期区分とほぼ一致している。両者は1923年から1926年にかけて長期波動の性格をめぐって論争を展開する。本稿は、この論争は主たる内容を紹介するとともに、トロツキーの長期波動論には2つの異なった種類があることを指摘し、この2つの長期波動にもとづいて、トロツキーの理論の真の意義について、およびコンドラチェフの長波論との根本的な違いについて明らかにする。またその過程で、トロツキーのフォーディズム論がその長期波動論と深く関連していることも示す。
レーニン夫人であるクルプスカヤの『レーニンの思い出』はレーニンやロシア革命研究にとって一級の価値を持った資料とみなされているが、この『レーニンの思い出』の第1巻がスターリン時代に大幅に修正され、そこにあった多くのトロツキーに関する叙述が消されるか、歪められたことはあまり知られていない。本稿は、その修正箇所をすべて網羅して紹介した。もともと『葦牙』16号(1992年)に発表したものだが、今回、Academiaにアップするにあたって大幅に加筆修正した。
1992年に発行された『トロツキー研究』第3号のPDF。