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ナサニエル・グリーン (軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ナサニエル・グリーン

ナサニエル・グリーンNathanael Greene, 1742年8月7日 - 1786年6月19日)は、アメリカ独立戦争における大陸軍の少将である。独立戦争が始まった時、グリーンは民兵の兵卒だった。彼は戦争中にジョージ・ワシントンの最も才能あるまた頼りになる士官という評判が立ち頭角を現した。

独立戦争前

グリーンは、クエーカー教徒の農夫で鍛冶屋の息子として、1742年6月27日ロードアイランドウォーウィックの郊外ポトウォムトで生まれた。父はナサニエル・グリーン・シニア、母は父の2番目の妻でメアリー・モットである。父親の教派は学問・教養を否定していたが、グリーンは独学で数学、戦術の歴史、そして法律を学んだ。後にイェール大学の学長となるエズラ・スタイルズ牧師が青年時代のグリーンに強い影響を与えた。

1770年、グリーンはコベントリーに移り、グリーン家の所有する鋳物工場の経営にあたった。父親の死の直前である。ここで彼は、まず公立学校の創設を要求し、同じ年にロードアイランド議会議員に選出された。議員には1771年、1772年、1775年にも再選されている。だが実際のところ、彼が議員であったかどうかについては疑問の余地がある。なぜなら彼の私文書にはそういった記述がないし、また彼と同じ名前の同時代人が何人かいたからである。彼は植民地人の間に多かったホイッグ党すなわち愛国者党に強く共鳴していた。1774年、彼はブロック・アイランドのキャサリーン・リトルフィールド・グリーンと結婚した。彼女の愛称はキャティ。彼女は10歳の時に母に死なれ、イースト・グリニッジで叔父叔母夫婦に育てられた。彼女の叔父はホイッグ党の指導者でありロードアイランドの知事を務めた。彼女の叔母キャサリーン・レイはベンジャミン・フランクリンと親しい友人であり1751年から1784年まで文通相手でもあった。

1774年、グリーンは土地の民兵の組織化を援助した。この民兵は10月にケント護衛兵として使われている。彼がその集団に参加したことは、彼が片足を軽く引きずっていただけに挑戦的なものだった。この時、彼は戦術について多くのことを学び、自身戦術を教え始めた。12月に彼は民兵法を改定する委員会委員に指名された。彼の軍務に関する熱心さがクエーカー教からの除籍につながったと信じられている。しかしクエーカー教からの離脱はもっと時間を掛けてのものであり、実際にはキャティとの結婚から始まった。当時、非クエーカー教徒との結婚は除名の対象であった。キャティとの間には5人の子供が生まれた。ジョージ・ワシントン(1776 - 1793)、マーサ・パティ・ワシントン(1777 - 1861)、コーネリア・ロット(1779 - 1865)、ナサニエル・レイ(1780 - 1859)、ルイーザ・キャサリーン(1783 - 1831)である。6番目の子供キャサリーンは1785年に夭折した。

独立戦争の初期

1775年5月8日、グリーンはボストン包囲戦に対応して作られたロードアイランド監視軍の准将に昇進した。6月22日には、大陸会議から大陸軍旅団長に指名された。ジョージ・ワシントンは1776年3月、ボストン開放後のボストン市司令官に彼を任命した。

グリーンは1775年10月と1776年1月に、当時の大陸会議ロードアイランド代表のサミュエル・ウォードに手紙を書き、その中で独立宣言に賛成した。1776年8月9日、彼は新しく少将に昇進する4人の中に選ばれ、大陸軍ロングアイランド部隊の指揮に就いた。彼はブルックリン高地の東に防衛に適した場所を選び、パットナム砦(現在のグリーン砦)の防壁と塹壕を作った。ロングアイランドの戦いの時は重病のために参加できなかった。

グリーンはニューヨークからの撤退とイギリス軍が使えなくなるように町を焼くことを助言した数人の中でも優れていた。彼はハドソン川ニュージャージー側にあるリー砦の指揮官となった。1776年10月25日イズラエル・パットナム将軍の跡を継ぎ、リー砦とは対岸のワシントン砦の指揮官となった。彼はワシントンからワシントン砦を極限まで守りぬくよう命令されていたが、大陸会議も10月11日に同じ決議を採択した。後にワシントンは文書で彼の裁量に任せると書き送った。彼は砦を直接指揮していたロバート・マゴー大佐にもう一度命令を送るまで防衛に努めること、イギリス軍のウィリアム・ハウ将軍の攻撃に備えて砦を補強することを命じた。それにも拘わらずワシントン砦とリー砦を失ったことでグリーンが責められた。しかしその責任を感じていたワシントンは、グリーンがいなければ自信を失っていただろう。

トレントンの戦いでは、グリーンは2つの大陸軍部隊の1つを指揮した。そこでの勝利の後、彼は即刻プリンストンを攻めるようワシントンに進言したが、戦争監視委員会に却下された。結果的にはプリンストンの戦いで勝利し、大陸軍の士気を上げた。ブランディワインの戦いでは、彼は予備軍を指揮した。ジャーマンタウンの戦いでは、ジョン・サリバン指揮下の右翼と距離を取りすぎて、戦闘にかかるタイミングを合わせ損なった。その失敗で彼はワシントンの信頼を失うかもしれないと思った。しかし、彼の部隊が到着したときから事態を大きく改善することができ勇名を上げた。

バレーフォージでは、1778年3月2日、ワシントンの差し迫った要請で、グリーンは補給局長に就いた。この難しい部署での彼の仕事振りをワシントンが心から賞賛し、「その揺れ動く難局を乗り切る最善のもの」だったとした。しかし、彼は戦場で部隊を指揮する権利を保つためにその仕事に就いたのだと理解していた。だから1778年6月28日モンマスの戦いで、彼は右翼の指揮を任された。8月、グリーンとラファイエット侯爵がロードアイランド遠征軍の指揮を執り、フランス海軍のデスタイン提督と連携を取った。この戦いは不成功だった。1780年6月、グリーンはスプリングフィールドの戦いで指揮を執った。8月彼は、主計局と大陸会議に指名された委員会による軍管理に対する干渉について、大陸会議と長く激しく争ったあと、補給局長を辞任した。大陸会議はそれぞれの邦が装備を行うよう求めていたが、そのことは連邦政府が邦を指導できる力を持っていなかっただけに効果がないことが分かっていた。ワシントンがウエストポイントの指揮官に彼を任命する1ヶ月前の1780年9月29日、彼はスパイとして捕らえられたジョン・アンドレ少佐を糾弾し死刑に追いやる裁判を取り仕切る役目を負った。

南部戦線の指揮

Washington & Nathanael Greene

大陸会議は南部戦線の指揮官選出においては不運続きだった。まずロバート・ハウを選び、サバンナを失った。ベンジャミン・リンカーンが続いて、チャールストンを落とされた。1780年8月16日キャムデンの近くでホレイショ・ゲイツの軍隊がイギリス軍の攻撃にあって崩壊し大混乱に陥った。このことで、イギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍が南部の王党派を集めバージニアでの戦いを有利にする道を作ってしまった。コーンウォリスは南部に確保した港から兵士や物資をノースカロライナサウスカロライナの内陸部に送る計画を立てた。

ゲイツの後任を選ぶ必要に迫られて、大陸会議はワシントンにその選択を委ねた。10月5日決議「最高司令官として、ゲイツ少将に代わる南部軍の指揮官を指名されたし」。ワシントンは選択に迷うことはなかった。彼が大陸会議の決議文を受け取った翌日ウエストポイントのナサニエル・グリーンに手紙を送った。

「貴殿を指名するのが私の願いです」

大陸会議は指名を承認し、グリーンにデラウェアからジョージアまでの全軍を指揮する異例の指揮権を与えた「総指揮官の統括に委ねる」任命書を送った。グリーンは12月2日、ノースカロライナのシャーロットで任務に就いた。サウスカロライナのイサック・フーガー准将が彼の副官に就いた。

戦略的撤退

南部の軍隊は弱く装備も悪く、コーンウォリスの優秀な部隊の脅威に曝されていた。グリーンは部隊を分割してイギリス軍の分隊に対応できるようにし、戦略的な相互作用を生み出すように画策した。この戦略で1781年1月17日ダニエル・モーガンが指揮したカウペンスの戦いでは、イギリス軍のほぼ90%を倒すか捕虜にすることができた。

800人以上の捕虜とともに、モーガンは北のサリスベリーに向けて戦略的撤退を開始し、キャトーバ川のコーワンズ砦にいたグリーンと合流した。グリーンはフーガーにギルフォード郡庁舎に部隊を動かすよう命じた。2月9日、ギルフォードに到着すると、グリーンは主だった士官による作戦会議にその下の士官も招集し、今後の戦いをどのように続けるべきかを問うた。評決によって、当面撤退を続けさらに兵力を高めるべきであるとし、コーンウォリスとの対決は引き伸ばすことになった。

翌10日、彼はパトリック・ヘンリーに軍隊を要求する文書を送った。

「もし貴殿が1,500人の志願兵を集められるなら、即座に私の援軍として送って欲しい。イギリス軍を大変難しく危険な立場にしてみせる」
「最も可能性が高いのは、ダン川の北に駐屯していることだろう。繰り返すが、現在の状況は最も重要な地点に差し掛かっており、最大の誠心誠意の実行が求められている。」

ダン川への進行

グリーンは同時に、主部隊の撤退を可能にするためオットー・ウィリアムズ大佐に軽装部隊の編成を命じた。2月9日のワシントンに当てた文書では次の様に述べている。

「ウィリアムズに任せた軽装部隊は次の構成です。第1と第3連隊の騎兵240、分遣隊としてハワード中佐の歩兵分隊280、リー中佐の歩兵とバージニアの狙撃兵60、合計で700名が民兵とともに敵の前進を食い止め、うまくいけば我々の全軍が会戦を行わずに撤退できます」

また次の様にも言っている。

「私は作戦会議を開きました。そこでは満場一致で戦闘を避け、即座にロアノークの向こうに撤退することが決まりました。議事録の写しを同封しますのでご照覧を」

この時の軍勢は1,426名の正規軍を含め総計2,036名に過ぎなかった。エドワード・カーリントン大佐が加わり、船を確保しバージニアのダン川に隠してあること、前もって数時間の余裕があれば集結できることを報告した。イギリス軍はガリフォードからわずか25マイルのセイラムにいた。これが2月10日である。

14日までに、グリーン軍はイギリス軍をやり過ごしてバージニアのハリファックス郡にあるアービンとボイドの船乗り場からダン川を渡った。コーンウォリスはその日の夕方ごろに大陸軍渡河の知らせを聞いた。川は水位が高く船無しでは渡れなかった。しかも船はすべて向こう岸にあった。グリーンがこのレースでは勝った。

「ノースカロライナを横断するようなこの大陸軍の撤退は、軍隊行動の傑作の一つといってもよい」とThe Papers of General Nathanael Greeneの編集者のデニス・M・コンラッドが書いている。

ジョン・バトラー将軍に宛てた手紙でグリーンは次の様に書いている。「私はこの地方に来れば十分な兵力を集められると予測していたので、攻撃的に行動しコーンウォリス卿とのレースにのぞめたのだ」

ギルフォード郡庁舎の戦い

ハリファックス郡庁舎での駐屯もわずか1週間で、グリーンは再び川を渡るために十分な約束と報告を得た。2月22日グリーンの主力部隊がダン川を渡りノースカロライナに入った。グリーンはコーンウォリスを追撃し、3月15日ノースカロライナの彼が戦場に選んだ場所でギルフォード郡庁舎の戦いを起こした。グリーンは敗れたが、コーンウォリス軍にも大きな損失を与えた。この戦闘の3日後、コーンウォリスはウィルミントンに撤退した。

グリーンの指揮と判断は次の数週間も際立っていた。コーンウォリスをバージニアの北に進軍させておき、彼自身は素早くサウスカロライナ内陸部の再制圧に動いた。4月25日キャムデンの2マイル北ホブカークスヒルでフランシス・ロードン卿の反撃などもあったが、彼はこれを6月末までに成し遂げた。5月22日から6月19日まで、グリーンはナインティシックスの包囲戦を行った。この作戦の結果、イギリス軍は海岸に向けて移動せざるを得なくなった。

グリーンはサンテー川のハイヒルズで部隊に6週間の休息を与えた。9月8日ユートースプリングの戦いアレクサンダー・スチュワート中佐指揮のイギリス軍とあいまみえた。この戦いで倒れた兵士達を、アメリカの作家フィリップ・フレニューが1781年の詩『勇敢なアメリカ人の記念に』で称えている。この戦闘は戦術的には引き分けだったが、イギリス軍の戦力は弱まり、チャールストンに撤退した。グリーンは戦争の残りの数ヶ月イギリス軍をそこに釘付けにした。グリーンの南部方面作戦には顕著な戦略的性格がある。彼は部隊の分割や戦闘の回避作戦などを駆使して長征中の敵を疲れさせ、実際の戦闘では代償を払ってでも、とても購い切れないような一時的な利点を確保した。グリーンは多くの有能な部下に支えられた。ポーランドの技師タデウシュ・コシチュシュコ、輝かしい騎兵士官ヘンリー・リー(通称Light-Horse Harry)とウィリアム・ワシントンパルチザンの指導者達トーマス・サムター、アンドリュー・ピケンズ、エリジャー・クラーク、そしてフランシス・マリオンである。

戦後の活動

ノースカロライナ、サウスカロライナおよびジョージアの各邦がグリーンに土地と金、さらにバムバーグ郡のエディストの南に“ブーンズバロニー”(Boone's Barony)という農園を提供することを可決した。彼はこれを売って南部軍の兵士の給費に当てた。陸軍長官の職を2度断り、1785年、グリーンはサバンナの14マイル北、“マルベリーグルーブ”という農園に落ち着いた。彼は1786年6月19日この農園で熱中症のために亡くなった。

グリーンは著しく有能であり、他の大陸軍で功績をあげた将軍達と同様、自制の効く兵士であった。彼は大陸軍の将校の中で軍事的能力ではワシントンに次ぎ、ワシントン以外では独立戦争の8年間を戦い抜いた唯一の将軍である。ワシントン同様、彼は小さなことでも大きな利点に変える能力があった。彼のイギリス軍に対する態度は人間性が溢れ親切でさえあった。彼は、繰り返し彼のことを誹謗していたゲイツが南部戦線での失態を批判された時は、ゲイツを弁護する寛大さがあった。

語録

  • 私は自分の権利と自由を守ることに決めた。さもなくば私の一生を売ってしまおう。
  • 人々が互いに尊重しあう熟成された社会から得られる幸福を楽しみながら、私の人生が平和と豊かさに満ちていたらどんなに幸福だったろう。しかし、母国が受けた傷、あらゆる子孫にまで及ぶ奴隷制度の鎖が、共通の人権を守るためそして自由の息子達を大胆に脅かす者達の追放のために私を駆り立てる。(彼の妻、キャサリーン・リトルフィールド・グリーンに言った言葉)
  • 「戦い、撃たれ、立ち上がり、また戦う」(We fight, get beat, rise, and fight again.)
  • 学ぶことは徳とは言えないが、我々に親しむことのできるものをもたらす手段である。知識の無い正直さは弱く使い物にならない。正直さのない知識は危険で恐ろしいものである。困窮からの解放、虚偽の看破、抑圧の打開、幸福の伝播、これらを人生の行動主題にするといい。

記念碑

ナサニエル・グリーンの栄誉を称えてその名がつけられた都市、郡、公園はアメリカ中にその数が知れない。また、彼の名前をつけた沿岸警備隊のカッターは4隻ある。アメリカ海軍では、ジェームズ・マディソン級原子力潜水艦en:USS Nathanael Greene (SSBN-636)があったが1986年に退役した。陸軍の船では、輸送船No313(1904)、第2次世界大戦中にUボートに沈められたリバティ級蒸気商船(1942)、および現役の128フィート・タグボートUSAV MG Nathanael Greene (LT 801)がある。

グリーンの遺骨が埋められた墓碑はサバンナのジョンソン・スクェアにある(1829)。彼の像はロジャー・ウィリアムズの像と共にロードアイランド州を代表するものとして、首都ワシントンの国立像館(National Hall of Statuary)に飾られている。ワシントンにはスタントンパークにもヘンリー・カーク・ブラウンの手になる彼の騎馬像がある。フィラデルフィア美術館の前にはルイス・アイセリンJr作の小さなグリーン像がある。

ギルフォード郡庁舎の戦いのあった場所にはフランシス・H・パッカード作の騎馬像がある。そこは現在のグリーンスボロ近くであり、この市名も彼の名前がつけられている。2006年にサウスカロライナのグリーンビル市(ここも彼の名前)が、サウスメイン通りとブロード通りの角で、T.J.ディクソンとジェイムズ・ネルソン作のグリーン像の除幕を行った。

参照

ナサニエル・グリーンに因んだ場所のリスト(英語)

関連項目

外部リンク

パブリックドメイン この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明)