「セク・トゥーレ」の版間の差分
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1958年の[[フランス第五共和政]]憲法のもとの住民投票で、他の植民地がフランス共同体内の自治共和国となった中で、唯一完全独立を選んだ。このときトゥーレは、「'''隷属の下での豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選ぶ'''」といったといわれる。しかし、フランスはギニアの完全独立を認めるのと引き換えに一切の援助を打ち切り、それまで植民地行政官として働いていた白人たちも一切合切をフランス本国に持ち帰った(書類どころか事務机まで持ち去ったという)。 |
1958年の[[フランス第五共和政]]憲法のもとの住民投票で、他の植民地がフランス共同体内の自治共和国となった中で、唯一完全独立を選んだ。このときトゥーレは、「'''隷属の下での豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選ぶ'''」といったといわれる。しかし、フランスはギニアの完全独立を認めるのと引き換えに一切の援助を打ち切り、それまで植民地行政官として働いていた白人たちも一切合切をフランス本国に持ち帰った(書類どころか事務机まで持ち去ったという)。 |
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そのためギニアの行政・経済は独立の瞬間に麻痺状態となったため、トゥーレは[[ソビエト連邦|ソ連]]と結ぶことでこの難局を切り抜けようとした。社会主義路線をとり、1967年からは[[中華人民共和国]]の[[人民公社]]の影響を受けた地方組織が作られている。それでも成果をあげることができず同時に政敵および人権論者の抑圧を行っため1977年に、物資の不足などから暴動が起こり、国内経済を自由化政策に変更したが成果は上がらず、経済の不振は続いた。国内の不満を抑えるために独立時から[[独裁]]政治を行い、その統治下においては密告や政治犯の粛清が横行し、[[恐怖政治]]の様相を呈した。そのため、さらに不満は増大し、[[1984年]]にトゥーレが死亡すると、すぐさま軍の[[ランサナ・コンテ]]が蜂起し、政権を奪取した。 |
そのためギニアの行政・経済は独立の瞬間に麻痺状態となったため、トゥーレは[[ソビエト連邦|ソ連]]と結ぶことでこの難局を切り抜けようとした。社会主義路線をとり、1967年からは[[中華人民共和国]]の[[人民公社]]の影響を受けた地方組織が作られている。それでも成果をあげることができず同時に政敵および人権論者の抑圧を行っため1977年に、物資の不足などから暴動が起こり、国内経済を自由化政策に変更したが成果は上がらず、経済の不振は続いた。国内の不満を抑えるために独立時から[[独裁]]政治を行い、その統治下においては密告や政治犯の粛清が横行し、[[恐怖政治]]の様相を呈した。[[アフリカ統一機構]]初代事務総長である[[ディアロ・テリ]]など、反体制派とみなされた者は首都[[コナクリ]]近郊の政治犯収容所、ボワロ・キャンプに送られ、虐殺された。当時、ギニア人口500万人のうち、200万人が[[セネガル]]や[[コートジボワール]]など近隣諸国に脱出したといわれている<ref>勝俣誠「現代アフリカ入門」第1刷、1991年11月20日(岩波書店)p94</ref>。そのため、さらに不満は増大し、[[1984年]]にトゥーレが死亡すると、すぐさま軍の[[ランサナ・コンテ]]が蜂起し、政権を奪取した。 |
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* [[アフリカ統一機構]] |
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*[[本島健三]] - 初めて対等に向き合ってくれたと感謝された測量士 |
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== 脚注 == |
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== 外部リンク == |
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2010年2月4日 (木) 08:35時点における版
アフメド・セク・トゥーレ Ahmed Sékou Touré | |
ギニア共和国
初代 大統領 | |
任期 | 1958年10月2日 – 1984年3月26日 |
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出生 | 1922年1月9日 ファラナ |
死去 | 1984年3月26日 クリーブランド |
政党 | ギニア民主党 |
セク・トゥーレ(Ahmed Sékou Touré、1922年1月9日 - 1984年3月26日)は、フランスから独立したギニア共和国の初代大統領(1958年 - 1984年)。植民地支配に抵抗した国民的英雄サモリ・トゥーレの曽孫。
生涯
ファラナのマリンケ族に生まれ、郵便労働者として労働組合を基盤に政治に進出し1952年にギニア民主党(PDG)の書記長に就任。1953年にゼネストを指導して影響力を拡大し1956年にフランス国民議会議員に選出された。
1958年のフランス第五共和政憲法のもとの住民投票で、他の植民地がフランス共同体内の自治共和国となった中で、唯一完全独立を選んだ。このときトゥーレは、「隷属の下での豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選ぶ」といったといわれる。しかし、フランスはギニアの完全独立を認めるのと引き換えに一切の援助を打ち切り、それまで植民地行政官として働いていた白人たちも一切合切をフランス本国に持ち帰った(書類どころか事務机まで持ち去ったという)。
そのためギニアの行政・経済は独立の瞬間に麻痺状態となったため、トゥーレはソ連と結ぶことでこの難局を切り抜けようとした。社会主義路線をとり、1967年からは中華人民共和国の人民公社の影響を受けた地方組織が作られている。それでも成果をあげることができず同時に政敵および人権論者の抑圧を行っため1977年に、物資の不足などから暴動が起こり、国内経済を自由化政策に変更したが成果は上がらず、経済の不振は続いた。国内の不満を抑えるために独立時から独裁政治を行い、その統治下においては密告や政治犯の粛清が横行し、恐怖政治の様相を呈した。アフリカ統一機構初代事務総長であるディアロ・テリなど、反体制派とみなされた者は首都コナクリ近郊の政治犯収容所、ボワロ・キャンプに送られ、虐殺された。当時、ギニア人口500万人のうち、200万人がセネガルやコートジボワールなど近隣諸国に脱出したといわれている[1]。そのため、さらに不満は増大し、1984年にトゥーレが死亡すると、すぐさま軍のランサナ・コンテが蜂起し、政権を奪取した。
関連項目
脚注
- ^ 勝俣誠「現代アフリカ入門」第1刷、1991年11月20日(岩波書店)p94
外部リンク
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