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'''ジェームズ・ベック・「ジム」ゴードン'''(James Beck "Jim" Gordon、[[1945年]][[7月14日]] - [[2023年]][[3月13日]]<ref name="BARKS01">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000231252|title=元デレク・アンド・ザ・ドミノスのドラマー、ジム・ゴードンが死去|publisher=BARKS|date=2023-03-16|accessdate=2023-03-16}}</ref>)<ref>{{cite web|author=greggp |url=http://www.dailykos.com/story/2009/07/14/753332/-Happy-Birthday-Jim-Gordon |title=Happy Birthday Jim Gordon |publisher=Daily Kos |date=2009-07-14 |accessdate=2012-07-08}}</ref>は、[[アメリカ合衆国]]のミュージシャン、[[作曲家]]。
'''ジェームズ・ベック・「ジム」ゴードン'''(James Beck "Jim" Gordon、[[1945年]][[7月14日]] - [[2023年]][[3月13日]]<ref name="BARKS01">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000231252|title=元デレク・アンド・ザ・ドミノスのドラマー、ジム・ゴードンが死去|publisher=BARKS|date=2023-03-16|accessdate=2023-03-16}}</ref>)<ref>{{cite web|author=greggp |url=http://www.dailykos.com/story/2009/07/14/753332/-Happy-Birthday-Jim-Gordon |title=Happy Birthday Jim Gordon |publisher=Daily Kos |date=2009-07-14 |accessdate=2012-07-08}}</ref>は、[[アメリカ合衆国]]のミュージシャン、[[作曲家]]。


[[グラミー賞]]を受賞したゴードンは、1960年代後半から1970年代にかけて最も人気のあったセッションドラマーの一人であり、多くの著名なミュージシャンと共にアルバムを録音し<ref>{{cite web|url=http://www.drummerworld.com/drummers/Jim_Gordon.html |title=Jim Gordon |publisher=Drummerworld |date= |accessdate=2012-07-08}}</ref>またブルースロックのスーパーグループであった[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]のドラマーでもあった。
1960年代後半から1970年代にかけて最も人気のあったセッションドラマーの一人であり、多くの著名なミュージシャンと共にアルバムを録音し<ref>{{cite web|url=http://www.drummerworld.com/drummers/Jim_Gordon.html |title=Jim Gordon |publisher=Drummerworld |date= |accessdate=2012-07-08}}</ref>またブルースロックのスーパーグループった[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]のドラマーでもあった。


1983年、ゴードンは母親を殺害し、懲役16年の判決を受け収監。原因となった[[統合失調症]]が改善されないため、一度も仮釈放されること[[:w:en:California Medical Facility|カリフォルニア州医療施設]]でその生涯を終えた。
1983年、母親を殺害し、[[統合失調症]]の診断と懲役16年の判決を受け収監。疾病が寛解しったので一度も仮釈放されないまま、2023年3月に[[:w:en:California Medical Facility|カリフォルニア州医療施設]]で生涯を終えた。


==経歴==
==経歴==
ゴードンは、[[ロサンゼルス]]の[[サンフェルナンド・バレー]]で成長し、[[:w:en:Grant High School (Los Angeles)|グラント高校]]に入学した<ref>Kent Hartman, ''The Wrecking Crew: The Inside Story of Rock and Roll's Best-Kept Secret'' ([[Macmillan Publishers]], 2012), ISBN 978-0312619749, p. 235. [https://books.google.co.jp/books?id=-ne73TRP1FQC&lpg=PA235&ots=tKY-J7Vp6D&dq=jim+gordon+drummer+%22grant+high+school%22&pg=PA235&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=jim%20gordon%20drummer%20%22grant%20high%20school%22&f=false Excerpts available] at [[Google Books]].</ref>。彼は[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校|UCLA]]の音楽奨学生に合格し、1963年からプロとしての経歴を始める。17歳で[[エヴァリー・ブラザース]]のバックを務め、当時のロサンゼルスにおける最も需要の多いセッションドラマーの一人となった。ゴードンはセッションドラマーの[[ハル・ブレイン]]から指導を受け、60年代に多くの注目に値するセッションに参加した。その中には[[ザ・ビーチ・ボーイズ]]の『[[ペット・サウンズ]]』、[[ジーン・クラーク]]の『Gene Clark with the Gosdin Brothers』、[[バーズ (アメリカのバンド)|ザ・バーズ]]の『[[名うてのバード兄弟]]』、[[メイスン・ウィリアムズ]]の『Classical Gas』などが挙げられる。経歴の絶頂時に彼は[[スタジオ・ミュージシャン]]としても多忙であったため、毎日2、3時間のレコーディングのために[[ラスベガス・ストリップ|ラスベガス]]から[[ロサンゼルス]]に飛行機で訪れ、その日の内に戻って[[シーザーズ・パレス]]で夜のステージに上がっていた
ゴードンは、[[ロサンゼルス]]の[[サンフェルナンド・バレー]]で成長し、[[:w:en:Grant High School (Los Angeles)|グラント高校]]に入学した<ref>Kent Hartman, ''The Wrecking Crew: The Inside Story of Rock and Roll's Best-Kept Secret'' ([[Macmillan Publishers]], 2012), ISBN 978-0312619749, p. 235. [https://books.google.co.jp/books?id=-ne73TRP1FQC&lpg=PA235&ots=tKY-J7Vp6D&dq=jim+gordon+drummer+%22grant+high+school%22&pg=PA235&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=jim%20gordon%20drummer%20%22grant%20high%20school%22&f=false Excerpts available] at [[Google Books]].</ref>。[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校|UCLA]]の音楽奨学生に合格し、1963年からプロとしての経歴を始める。


セッション・ドラマーの[[ハル・ブレイン]]から指導を受け、17歳で[[エヴァリー・ブラザース]]のバックを務め、当時のロサンゼルスで最も需要の多いセッションドラマーの一人となった。60年代に多くの注目に値するセッションに参加した。代表例には[[ザ・ビーチ・ボーイズ]]の『[[ペット・サウンズ]]』、[[ジーン・クラーク]]の『Gene Clark with the Gosdin Brothers』、[[バーズ (アメリカのバンド)|ザ・バーズ]]の『[[名うてのバード兄弟]]』、[[メイスン・ウィリアムズ]]の『Classical Gas』などが挙げられる。経歴の絶頂時には[[スタジオ・ミュージシャン]]としても多忙で、毎日2、3時間のレコーディングのために[[ラスベガス・ストリップ|ラスベガス]]から[[ロサンゼルス]]に飛行機で訪れ、その日の内に戻って[[シーザーズ・パレス]]で夜のステージに上がった。
1969年と70年、ゴードンは[[デラニー&ボニー]]のバックバンドとしてツアーに参加した。当時、バンドには[[エリック・クラプトン]]も参加していた。クラプトンはバンドのリズムセクション - ゴードン、ベーシストの[[カール・レイドル]]、キーボード奏者の[[ボビー・ウィットロック]]を誘い、彼らは後に[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]と呼ばれる新しいバンドを結成した。バンドは最初のスタジオレコーディングとして、[[ジョージ・ハリスン]]の初ソロアルバム『[[オール・シングス・マスト・パス]]』のバックバンドとしてのセッションを行った。


1969年11月から1970年3月まで、[[デラニー&ボニー]]&フレンズのメンバーとしてヨーロッパとアメリカでのツアーに参加した、ツアーのメンバーには[[エリック・クラプトン]]がいて、彼はリズム・セクションのゴードンと[[カール・レイドル]](ベース)、さらに[[ボビー・ウィットロック]](キーボード)を誘って、後に[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]と呼ばれることになるバンドを結成した。
は続いドミノスの1970年の二枚組アルバム『[[いとしのレイラ (アルバム)|いとしのレイラ]]』ドラマーとして参加し、「[[いとしのレイラ]]」では後半のピアノコーダ部分を作曲した。年、ウィットロックはそのコーダ部分はゴードンが作った物ではないと語っている。ジムはそのピアノのメロディーを元恋人の[[リタ・クーリッジ]]から盗んだのさ。僕は知ってる。なぜならデラニー&ボニーの頃、僕はハリウッドヒルズのジョン・ガーフィールドの古い家に暮らしてて、そこのゲストハウスにはアップライトピアノがあったんだ。リタとジムがゲストハウスに来て、彼らが「タイム」って呼んでたその曲を作曲するのに僕を誘ったんだ。...彼女の姉のプリシラはその曲を[[ブッカー・T・ジョーンズ]]と録音した....ジムはリタの曲からメロディーを盗み、作曲のクレジットに彼女を入れなかった。彼女のボーイフレンドは彼女から盗んだんだ。<ref name=whitlock>{{cite web|title=Layla’s 40th: The Where’s Eric! Interview With Bobby Whitlock|url=http://www.whereseric.com/eric-clapton-news/303-layla%E2%80%99s-40th-where%E2%80%99s-eric-interview-bobby-whitlock|accessdate=2011-04-26}}</ref>彼の著書では[[グラハム・ナッシュ]]が一時のガールフレンドのために同じクレームを主張したとある<ref>"Wild Tales" - Crown Publishing Group</ref>。「タイム」は[[プリシラ・クーリッジ]]とブッカー・T・ジョーンズの1973年のアルバム『''Chronicles''』で発表された<ref>http://www.discogs.com/Booker-T-Priscilla-Jones-Chronicles/release/2285764</ref>。
{{Main|デレク・アンド・ザ・ドミノス#歴史}}


彼等は最初のスタジオレコディグとし[[ジョージ・ハリン]]アルバム『[[オール・シングス・マスト・パス]]』バックバンドとしてのセッションを行ない、ついで二枚組アルバム『[[いとしのレイラ (アルバム)|いとしのレイラ]]』(1970年)を制作した。ゴードンはドラマーとして参加したのに加えて、「[[いとしのレイラ]]」後半のピアノコーダ部分を作曲した。同曲は[[第35回グラミー賞]](19933月)の[[:en:Grammy_Award_for_Best_Rock_Song|ベスト・ロック・ソング]]に選ばれ彼は共作者のクラプトンと共に受賞者になった。しかしウィットロックは後年、そのコーダ部分はが作った物ではないと語っている<ref name="whitlock">{{cite web|title=Layla’s 40th: The Where’s Eric! Interview With Bobby Whitlock|url=http://www.whereseric.com/eric-clapton-news/303-layla%E2%80%99s-40th-where%E2%80%99s-eric-interview-bobby-whitlock|accessdate=2011-04-26}}</ref><blockquote>ジムはそのピアノのメロディーを元恋人の[[リタ・クーリッジ]]から盗んだのさ。僕は知ってる。なぜならデラニー&ボニーの頃、僕はハリウッドヒルズのジョン・ガーフィールドの古い家に暮らしてて、そこのゲストハウスにはアップライトピアノがあったんだ。リタとジムがゲストハウスに来て、彼らが「タイム」って呼んでたその曲を作曲するのに僕を誘ったんだ。...彼女の姉のプリシラはその曲を[[ブッカー・T・ジョーンズ]]と録音した(中略)ジムはリタの曲からメロディーを盗み、作曲のクレジットに彼女を入れなかった。彼女のボーイフレンドは彼女から盗んだんだ。</blockquote>彼の著書では[[グラハム・ナッシュ]]が一時のガールフレンドだった[[リタ・クーリッジ]]のために同じを主張したとある<ref>"Wild Tales" - Crown Publishing Group</ref>。「タイム」は[[:en:Priscilla_Coolidge|プリシラ・クーリッジ]]と[[ブッカー・T・ジョーンズ]]の1973年のアルバム『''Chronicles''』で発表された<ref>http://www.discogs.com/Booker-T-Priscilla-Jones-Chronicles/release/2285764</ref>。
また、彼その後のアメリカとイギリスのツアーでのバンドと共演奏した。バンドはセカンドアルバムが完成する前の1971年春に解散した。


ゴードンデレク・アンド・ザ・ドミノスのアメリカとイギリスのツアーに参加した。バンドはセカンドアルバムが完成する前の1971年春に解散した。
1970年、ゴードンは[[ジョー・コッカー]]の『[[マッド・ドッグス&イングリッシュメン]]』ツアーに参加し、[[デイヴ・メイソン]]のアルバム『アローン・トゥゲザー』に参加した。1971年、彼は[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]とツアーを行い、『The Low Spark of High Heeled Boys』を含む2枚のアルバムに参加した<ref group="注釈">1971年9月に発表された''[[:en:Welcome_to_the_Canteen|Welcome to the Canteen]]''はオリジナル・メンバーの[[:en:Dave_Mason|デイヴ・メイスン]]を迎えたコンサートのライブ・アルバム。同年11月に発表された''[[:en:The_Low_Spark_of_High_Heeled_Boys|The Low Spark of High Heeled Boys]]''は新作アルバム。</ref>。その年、彼は[[ハリー・ニルソン]]のアルバム『[[ニルソン・シュミルソン]]』に参加し、「[[ジャンプ・イントゥ・ザ・ファイアー]]」でドラムソロを演奏した。


1970年、彼は[[ジョー・コッカー]]の『[[マッド・ドッグス&イングリッシュメン]]』ツアーに参加し、[[デイヴ・メイソン]]のアルバム『アローン・トゥゲザー』に参加した。彼はコッカーとツアーをしている間、同じくツアに参加していたクーリッジをホテルの廊下で殴り、2人の関係を終わらせたと伝えられている<ref>{{cite news |last1=Getlen |first1=Larry |title=Rita Coolidge was muse to rock icons - and this is how they treated her |url=https://nypost.com/2016/04/03/rita-coolidge-was-muse-to-rock-icons-and-this-is-how-they-treated-her/ |access-date=2016-04-04 |publisher=New York Post |date=2016-04-03 |quote=They walked into the hallway, and something in Coolidge's mind told her this might be when Gordon would propose. As they got to the hallway, Coolidge slightly nervous in anticipatory delight, Gordon "hit me so hard that I was lifted off the floor and slammed against the wall on the other side of the hallway." As his fist met her eye, she "literally went flying" and was knocked unconscious. Then Gordon walked back into the room - alone - as if nothing had happened. The relationship was over, although Gordon was not removed from the tour - everyone worked to make sure she and Gordon were separated, she writes, and that she was safe.}}</ref>。
ゴードンは1972にリリースされた[[インクレディブル・ボンゴ・バンド]]のアルバム『Bongo Rock』に参加しLPバージョンの「[[アパッチ (シャドウズの曲)|アパッチ]]」での彼のドラムブレイクは[[ヒップホップ・ミュージック|ラップ]]ミュージシャンによって頻繁にサンプリングされている<ref name="NYT">{{cite news | url=https://www.nytimes.com/2006/10/29/arts/music/29herm.html | title=All Rise for the National Anthem of Hip-Hop | work=[[New York Times]] | date=October 29, 2006 | first=Will | last=Hermes | access-date= 2006-11-01}}</ref>。1972年、ゴードンは[[フランク・ザッパ]]の20ピースの「グランド・ワズー」ビッグバンドとそれに続く10ピースの「プチ・ワズー」バンドに参加した<ref group="注釈">ザッパは1971年12月に自分が率いていた[[マザーズ・オブ・インヴェンション|ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション]](MOI)のロンドン公演で観客から暴行を受けて重傷を負ったので、MOIを解散して長期療養していた。1972年9月、彼はゴードンやセッション・ミュージシャンを迎えて総勢20名のザ・グランド・ワズー・オーケストラを編成してライブ活動を再開し、アメリカとヨーロッパで7回のコンサートを開いた。さらに彼は、ザ・グランド・ワズー・オーケストラからゴードンを含むメンバー数人を選び出して総勢10名のザ・プチ・ワズーを編成して、10月から12月にかけてアメリカとカナダでコンサートを開いた。21世紀になってザッパの遺族によって、ザ・グランド・ワズー・オーケストラのツアーのライブ音源が''[[:en:Wazoo|Wazoo]]''(2007年)、ザ・プチ・ワズーのツアーのライブ音源が''[[:en:Imaginary_Diseases|Imaginary Diseases]](2006年)、[[:en:Little_Dots|Little Dots]](2016年)に収録されて発表された。''</ref>{{Sfb|Ulrich|2018|pp=xxxii-xxxiii}}。おそらく彼のザッパとの最も有名なレコーディングは、1974年アルバム『[[アポストロフィ (')]]』のタイトルトラックである。これは、ギターとしてザッパ[[トニー・デュラン]]、ベスの[[ジャック・ブルース]]行ったジャムセッション<ref group="注釈">1972年11月8日、ザッパはニューヨークの[[エレクトリック・レディ・スタジオ]]で、ゴードン、ゴードンの友人で当時[[:en:West,_Bruce_and_Laing|ウエスト・ブルース・アンド・レイング]]のアメリカ・ツアーに参加していたブルース、ザ・プチ・ワズーのメンバーだった[[:en:Tony_Duran_(musician)|トニー・デュラン]](ギター)とジャム・セッションを行なった。この時の音源の一つが、1974年に発表されたザッパのソロ・アルバム『アポストロフィ (')』のタイトル曲なった。また、この時の別の音源に含まれたゴードンの演奏に後日ザッパがダビングを行なったものが'Down In De Dew'となって、ザッパの遺族が発表した''[[:en:Läther|Läther]]''(1996年)に収録された。</ref>{{Sfb|Ulrich|2018|p=23}}で、ブルースとゴードンの両名がクレジットされた。ザッパはゴードンをステージで紹介するとき、その若々しい容貌から、しばしば彼を「スキッピー」と呼んだ。また1972年、ゴードンは[[ヘレン・レディ]]のアルバム『[[私は女]]』でドラムを演奏した。


1971年、彼は[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]と活動して2枚のアルバムに参加した<ref group="注釈">1971年9月に発表された''[[:en:Welcome_to_the_Canteen|Welcome to the Canteen]]''はオリジナル・メンバーの[[:en:Dave_Mason|デイヴ・メイスン]]を迎えたコンサートのライブ・アルバム。同年11月に発表された''[[:en:The_Low_Spark_of_High_Heeled_Boys|The Low Spark of High Heeled Boys]]''は新作アルバム。</ref>。年、[[ハリー・ニルソン]]のアルバム『[[ニルソン・シュミルソン]]』に参加し、「[[ジャンプ・イントゥ・ザ・ファイアー]]」でドラムソロを演奏した。
1973年にゴードンは[[ジョニー・リバーズ]]の「ブルー・スエード・シューズ」と[[アート・ガーファンクル]]の『エンジェル・クレア』で演奏し、1974年までリバーズと一緒にツアーを行い、ライブ・アルバム『ラスト・ブギー・イン・パリ』演奏しているまた1974年、ゴードンはシングル「Rikki Don't Lose That Number」を含む、[[スティーリー・ダン]]のアルバム『[[プレッツェル・ロジック]]』に参加し、ほとんどのトラックでドラムをプレイした。彼は1973年から1975年までサウザー-ヒルマン-フューレイ・バンドのドラマーとして、[[クリス・ヒルマン]]と再び仕事をした。また[[アリス・クーパー]]の1976年のアルバム『アリス・クーパー・ゴーズ・トゥ・ヘル』3つのトラックでドラムを演奏した。


1972年、[[インクレディブル・ボンゴ・バンド]]のアルバム『Bongo Rock』に参加。LPバージョンの「[[アパッチ (シャドウズの曲)|アパッチ]]」での彼のドラムブレイクは[[ヒップホップ・ミュージック|ラップ]]ミュージシャンによって頻繁にサンプリングされている<ref name="NYT">{{cite news | url=https://www.nytimes.com/2006/10/29/arts/music/29herm.html | title=All Rise for the National Anthem of Hip-Hop | work=[[New York Times]] | date=October 29, 2006 | first=Will | last=Hermes | access-date= 2006-11-01}}</ref>。また[[ヘレン・レディ]]のアルバム『[[私は女]]』でドラムを演奏した。
2023年3月13日死去。77歳没<ref name="BARKS01"/>。


年、[[フランク・ザッパ]]の20ピースのビッグ・バンドである「グランド・ワズー」とそれに続く10ピースのバンド「プチ・ワズー」に参加した<ref group="注釈">ザッパは1971年12月に自分が率いていた[[マザーズ・オブ・インヴェンション|ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション]](MOI)のロンドン公演で観客から暴行を受けて重傷を負ったので、MOIを解散して長期療養していた。1972年9月、彼はゴードンやセッション・ミュージシャンを迎えて総勢20名のザ・グランド・ワズー・オーケストラを編成してライブ活動を再開し、アメリカとヨーロッパで7回のコンサートを開いた。さらに彼は、ザ・グランド・ワズー・オーケストラからゴードンを含むメンバー数人を選び出して総勢10名のザ・プチ・ワズーを編成して、10月から12月にかけてアメリカとカナダでコンサートを開いた。21世紀になってザッパの遺族によって、ザ・グランド・ワズー・オーケストラのツアーのライブ音源が''[[:en:Wazoo|Wazoo]]''(2007年)、ザ・プチ・ワズーのツアーのライブ音源が''[[:en:Imaginary_Diseases|Imaginary Diseases]](2006年)、[[:en:Little_Dots|Little Dots]](2016年)に収録されて発表された。''</ref>{{Sfb|Ulrich|2018|pp=xxxii-xxxiii}}。ザッパはステージで彼を紹介するとき、その若々しい容貌から、しばしば彼を「スキッピー」と呼んだ。おそらく彼のザッパとの最も有名なレコーディングは、1974年に発表されたアルバム『[[アポストロフィ (')]]』のタイトルトラックである。これは1972年11月にザッパ(ギター)、[[トニー・デュラン]](ギタ)、[[ジャック・ブルース]](ベース)と行ったジャムセッション<ref group="注釈">1972年11月8日、ザッパはニューヨークの[[エレクトリック・レディ・スタジオ]]で、ゴードン、ゴードンの友人で当時[[:en:West,_Bruce_and_Laing|ウエスト・ブルース・アンド・レイング]]のアメリカ・ツアーに参加していたブルース、ザ・プチ・ワズーのメンバーだった[[:en:Tony_Duran_(musician)|トニー・デュラン]](ギター)とジャム・セッションを行なった。この時の音源の一つが、1974年に発表されたザッパのソロ・アルバム『アポストロフィ (')』のタイトル曲なった。この時の別の音源に含まれたゴードンの演奏に後日ザッパがダビングを行なったものが'Down In De Dew'とて、ザッパの遺族が発表した''[[:en:Läther|Läther]]''(1996年)に収録された。</ref>{{Sfb|Ulrich|2018|p=23}}で、ブルースとがクレジットされた。
==メンタルヘルス==
ゴードンは[[統合失調症]]を発症し、母親の声を含幻聴が聞こえるようになった。彼は自分自身を飢えさせ、眠ったりリラックスしたりドラムを演奏することができなくなった<ref name="inquirer">{{cite web|url=http://articles.philly.com:80/1994-08-21/entertainment/25842000_1_top-rock-stars-jim-gordon-grammy|title=The Haunted Talent Behind 'Layla' Jim Gordon Won A Grammy For Co-writing The Song That Eric Clapton Reprised In The '90s. But Honors Mean Little. Gordon Is Serving Time For The 1983 Slaying Of His Mother.|work=[[The Philadelphia Inquirer]]|archive-url=https://web.archive.org/web/20110705001908/http://articles.philly.com/1994-08-21/entertainment/25842000_1_top-rock-stars-jim-gordon-grammy|access-date=1 May 2011|archive-date=2011-07-05|url-status=live}}</ref>。医師は彼を正しく診断できず、[[アルコール依存症|アルコール中毒者]]用の治療を行った{{Citation needed|date=June 2015}}


1973年[[ジョニー・リバーズ]]の「ブルー・スエード・シューズ」と[[アート・ガーファンクル]]の『[[天使の歌声]]』で演奏し、1974年までリバーズと一緒にツアーを行い、ライブ・アルバム『ラスト・ブギー・イン・パリ』演奏が収録された。1974年、[[スティーリー・ダン]]のアルバム『[[プレッツェル・ロジック]]』に参加し、シングル・カットされた「リキの電話番号」を含むほとんど全曲でドラムを演奏した。1973年から1975年までサウザー-ヒルマン-フューレイ・バンドのドラマーとして、[[クリス・ヒルマン]]と再び仕事をした。1976年には[[アリス・クーパー]]のアルバム『アリス・クーパー・ゴーズ・トゥ・ヘル』に収録された3でドラムを演奏した。
1970年代初頭に[[ジョー・コッカー]]とツアーをしている間、ドンはホテルの廊下で当時のガールフレンドの[[リタ・クーリッジ]]を殴り、それによって彼らの関係を終わらせたと伝えられている<ref>{{cite news|last1=Getlen|first1=Larry|title=Rita Coolidge was muse to rock icons - and this is how they treated her|url=https://nypost.com/2016/04/03/rita-coolidge-was-muse-to-rock-icons-and-this-is-how-they-treated-her/|access-date=2016-04-04|publisher=New York Post|date=2016-04-03|quote=They walked into the hallway, and something in Coolidge's mind told her this might be when Gordon would propose. As they got to the hallway, Coolidge slightly nervous in anticipatory delight, Gordon "hit me so hard that I was lifted off the floor and slammed against the wall on the other side of the hallway." As his fist met her eye, she "literally went flying" and was knocked unconscious. Then Gordon walked back into the room - alone - as if nothing had happened. The relationship was over, although Gordon was not removed from the tour - everyone worked to make sure she and Gordon were separated, she writes, and that she was safe.}}</ref>。


==母親の殺害、有罪判決と投獄==
== 母親の殺害、有罪判決と投獄、そして死 ==
やがて彼は[[統合失調症]]を発症し、母親の声を含んだ幻聴の症状を持った。彼は自分自身を飢えさせ、眠ったりリラックスしたりドラムを演奏したりできなくなった<ref name="inquirer">{{cite web|url=http://articles.philly.com:80/1994-08-21/entertainment/25842000_1_top-rock-stars-jim-gordon-grammy|title=The Haunted Talent Behind 'Layla' Jim Gordon Won A Grammy For Co-writing The Song That Eric Clapton Reprised In The '90s. But Honors Mean Little. Gordon Is Serving Time For The 1983 Slaying Of His Mother.|work=[[The Philadelphia Inquirer]]|archive-url=https://web.archive.org/web/20110705001908/http://articles.philly.com/1994-08-21/entertainment/25842000_1_top-rock-stars-jim-gordon-grammy|access-date=1 May 2011|archive-date=2011-07-05|url-status=live}}</ref>。しかし医師は彼を正しく診断できず、[[アルコール依存症|アルコール中毒者]]用の治療を行った{{Citation needed|date=June 2015}}
1983年6月3日、ゴードン72歳の母親、オサ・マリー・ゴードンをハンマー殴打した後、肉切り包丁で刺し殺害した。彼は声が彼に母親を殺すように言ったと主張した<ref name="NYT" /><ref>{{cite news|url=https://www.telegraph.co.uk/culture/music/rockandpopfeatures/8386038/The-curse-of-the-Dominos.html|title=The curse of the Dominos|work=[[Daily Telegraph]]|access-date=1 May 2011|location=London|first=John|last=Robinson|date=March 16, 2011}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/news/bloc-partys-drummer-is-latest-casualty-of-toughest-job-in-rock-423852.html|title=Bloc Party's drummer is latest casualty of toughest job in rock|work=[[The Independent]]|access-date=1 May 2011|location=London|first=Terry|last=Kirby|date=November 11, 2006|archive-url=https://web.archive.org/web/20120221153130/https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/news/bloc-partys-drummer-is-latest-casualty-of-toughest-job-in-rock-423852.html|archive-date=2012-02-21}}</ref>。


1983年6月3日、彼は72歳の母親オサ・マリー・ゴードンをハンマーで殴打した後、肉切り包丁で刺して殺害した。
ゴードンは殺人で逮捕されて初めて、[[統合失調症]]と適切に診断された。裁判で、裁判所は彼が急性統合失調症であると認めたが、[[w:en:Insanity Defense Reform Act|精神異常抗弁改革法]]によるカリフォルニア州法の変更のため、彼は[[w:en:Insanity defense|精神異常抗弁]]を使用することを許可されなかった<ref name="inquirer" />。


殺人逮捕されようやく初めて統合失調症と診断された。彼は声が母親を殺すようにと自分に言ったと主張した<ref name="NYT" /><ref>{{cite news |url=https://www.telegraph.co.uk/culture/music/rockandpopfeatures/8386038/The-curse-of-the-Dominos.html |title=The curse of the Dominos |work=[[Daily Telegraph]] |access-date=1 May 2011 |location=London |first=John |last=Robinson |date=March 16, 2011}}</ref><ref>{{cite news |url=https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/news/bloc-partys-drummer-is-latest-casualty-of-toughest-job-in-rock-423852.html |title=Bloc Party's drummer is latest casualty of toughest job in rock |work=[[The Independent]] |access-date=1 May 2011 |location=London |first=Terry |last=Kirby |date=November 11, 2006 |archive-url=https://web.archive.org/web/20120221153130/https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/news/bloc-partys-drummer-is-latest-casualty-of-toughest-job-in-rock-423852.html |archive-date=2012-02-21}}</ref>。裁判所は彼が急性統合失調症であると認めたが、[[w:en:Insanity Defense Reform Act|精神異常抗弁改革法]]によるカリフォルニア州法の変更のため、彼は[[w:en:Insanity defense|精神異常抗弁]]を使用することを許可されなかった<ref name="inquirer" />。
1984年7月10日、ゴードンは16年の刑を宣告された<ref>{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=iRhZAAAAIBAJ&pg=4202,1079941&dq=jim-gordon+murder&hl=en|title=Names.. In The News|date=11 July 1984|work=The Union Democrat|access-date=1 May 2011}}</ref>。彼は1991年に最初の仮釈放の資格を得たが、仮釈放の聴聞会に一度も出席しなかったため、仮釈放資格は却下された。 2014年、彼は聴聞会への出席を辞退し、少なくとも2018年まで仮釈放を却下された。ロサンゼルスの副地方検事は聴聞会で、彼はまだ「深刻な心理的無能力」であり「薬を服用していないときは危険である」と述べた<ref>Flanary, Patrick (May 17, 2013) [https://www.rollingstone.com/music/news/jailed-drummer-jim-gordon-denied-parole-20130517 Jailed Drummer Jim Gordon Denied Parole] ''Rolling Stone Magazine''. Retrieved June 28, 2015.</ref>。2017年11月、ゴードンは統合失調症と再診断され、2021年3月に再取得した11回目の資格も却下となった<ref>{{cite web|url=https://www.billboard.com/pro/jim-gordon-drummer-denied-parole-layla-songwriter/|title=Derek and the Dominos' Jim Gordon, Jailed for Killing His Mom, Denied Parole for Fear 'He'd Hurt Somebody Else'|accessdate=2018-04-30}}</ref>。結局、ゴードンは[[カリフォルニア州]][[バカビル]]にある医療および精神科の刑務所であるカリフォルニア医療施設([[:w:en:California Medical Facility|California Medical Facility〈CMF〉]])に収監されたまま、生涯を終えた<ref>{{cite web |url=https://inmatelocator.cdcr.ca.gov/Details.aspx?ID=C89262 |title=CDCR Inmate Locator |publisher=California Department of Corrections & Rehabilitation |date=January 14, 2018 |access-date=January 14, 2018}}</ref>。

1984年7月10日、は16年の刑を宣告された<ref>{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=iRhZAAAAIBAJ&pg=4202,1079941&dq=jim-gordon+murder&hl=en|title=Names.. In The News|date=11 July 1984|work=The Union Democrat|access-date=1 May 2011}}</ref>。1991年に最初の仮釈放の資格を得たが、仮釈放の聴聞会に一度も出席しなかったため、仮釈放資格は却下された。 2014年、彼は聴聞会への出席を辞退し、少なくとも2018年まで仮釈放を却下された。ロサンゼルスの副地方検事は聴聞会で、彼はまだ「深刻な心理的無能力」であり「薬を服用していないときは危険である」と述べた<ref>Flanary, Patrick (May 17, 2013) [https://www.rollingstone.com/music/news/jailed-drummer-jim-gordon-denied-parole-20130517 Jailed Drummer Jim Gordon Denied Parole] ''Rolling Stone Magazine''. Retrieved June 28, 2015.</ref>。2017年11月、は統合失調症と再診断され、2021年3月に再取得した11回目の資格も却下となった<ref>{{cite web|url=https://www.billboard.com/pro/jim-gordon-drummer-denied-parole-layla-songwriter/|title=Derek and the Dominos' Jim Gordon, Jailed for Killing His Mom, Denied Parole for Fear 'He'd Hurt Somebody Else'|accessdate=2018-04-30}}</ref>。

2023年3月13日、[[カリフォルニア州]][[バカビル]]にある医療および精神科の刑務所であるカリフォルニア医療施設([[:w:en:California Medical Facility|California Medical Facility〈CMF〉]])に収監されたまま、死去<ref>{{cite web |url=https://inmatelocator.cdcr.ca.gov/Details.aspx?ID=C89262 |title=CDCR Inmate Locator |publisher=California Department of Corrections & Rehabilitation |date=January 14, 2018 |access-date=January 14, 2018}}</ref>。77歳没<ref name="BARKS01" />。


== ディスコグラフィ ==
== ディスコグラフィ ==
その経歴の中でゴードンは多くのミュージシャンの作品に参加した。以下はその一部<ref>{{cite web |url=https://www.allmusic.com/artist/jim-gordon-mn0000848696/credits |title=Jim Gordon credits |website=AllMusic |access-date=September 11, 2019}}</ref>
ゴードンはその経歴の中で多くのミュージシャンの作品に参加した。以下はその一部である<ref>{{cite web |url=https://www.allmusic.com/artist/jim-gordon-mn0000848696/credits |title=Jim Gordon credits |website=AllMusic |access-date=September 11, 2019}}</ref>
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* [[ピーター・アレン]]: ''[[Taught by Experts]]''
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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=== 引用文献 ===
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== 参考文献 ==
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2024年5月16日 (木) 19:47時点における版

ジム・ゴードン
デレク・アンド・ザ・ドミノス、左端がジム・ゴードン
基本情報
出生名 James Beck Gordon
生誕 1945年7月14日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州 ロサンゼルス
死没 (2023-03-13) 2023年3月13日(77歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州 バカビル カリフォルニア州医療施設英語版
ジャンル ロック[1]
職業 ドラマー
担当楽器 ドラムス, パーカッション, ピアノ
活動期間 1963-1980
共同作業者 デラニー&ボニー, ジョー・コッカー, デレク・アンド・ザ・ドミノス, ジョージ・ハリスン, トラフィック, フランク・ザッパ, インクレディブル・ボンゴ・バンド, アリス・クーパー, Souther-Hillman-Furay Band, ジョニー・リバーズ, シールズ&クロフツ, ブレッド

ジェームズ・ベック・「ジム」・ゴードン(James Beck "Jim" Gordon、1945年7月14日 - 2023年3月13日[2][3]は、アメリカ合衆国のミュージシャン、作曲家

1960年代後半から1970年代にかけて最も人気のあったセッションドラマーの一人であり、多くの著名なミュージシャンと共にアルバムを録音した[4]。またブルースロックのスーパーグループだったデレク・アンド・ザ・ドミノスのドラマーでもあった。

1983年、母親を殺害し、統合失調症の診断と懲役16年の判決を受け収監。疾病が寛解しなかったので一度も仮釈放されないまま、2023年3月にカリフォルニア州医療施設で生涯を終えた。

経歴

ゴードンは、ロサンゼルスサンフェルナンド・バレーで成長し、グラント高校に入学した[5]UCLAの音楽奨学生に合格し、1963年からプロとしての経歴を始める。

セッション・ドラマーのハル・ブレインから指導を受け、17歳でエヴァリー・ブラザースのバックを務め、当時のロサンゼルスで最も需要の多いセッションドラマーの一人となった。60年代に多くの注目に値するセッションに参加した。代表例にはザ・ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』、ジーン・クラークの『Gene Clark with the Gosdin Brothers』、ザ・バーズの『名うてのバード兄弟』、メイスン・ウィリアムズの『Classical Gas』などが挙げられる。経歴の絶頂時にはスタジオ・ミュージシャンとしても多忙で、毎日2、3時間のレコーディングのためにラスベガスからロサンゼルスに飛行機で訪れ、その日の内に戻ってシーザーズ・パレスで夜のステージに上がった。

1969年11月から1970年3月まで、デラニー&ボニー&フレンズのメンバーとしてヨーロッパとアメリカでのツアーに参加した、ツアーのメンバーにはエリック・クラプトンがいて、彼はリズム・セクションのゴードンとカール・レイドル(ベース)、さらにボビー・ウィットロック(キーボード)を誘って、後にデレク・アンド・ザ・ドミノスと呼ばれることになるバンドを結成した。

彼等は最初のスタジオレコーディングとしてジョージ・ハリスンのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』のバックバンドとしてのセッションを行ない、ついで二枚組アルバム『いとしのレイラ』(1970年)を制作した。ゴードンはドラマーとして参加したのに加えて、「いとしのレイラ」の後半のピアノコーダ部分を作曲した。同曲は第35回グラミー賞(1993年3月)のベスト・ロック・ソングに選ばれ、彼は共作者のクラプトンと共に受賞者になった。しかしウィットロックは後年、そのコーダ部分は彼が作った物ではないと語っている[6]

ジムはそのピアノのメロディーを元恋人のリタ・クーリッジから盗んだのさ。僕は知ってる。なぜならデラニー&ボニーの頃、僕はハリウッドヒルズのジョン・ガーフィールドの古い家に暮らしていて、そこのゲストハウスにはアップライトピアノがあったんだ。リタとジムがゲストハウスに来て、彼らが「タイム」って呼んでいたその曲を作曲するのに僕を誘ったんだ。...彼女の姉のプリシラはその曲をブッカー・T・ジョーンズと録音した(中略)ジムはリタの曲からメロディーを盗み、作曲のクレジットに彼女を入れなかった。彼女のボーイフレンドは彼女から盗んだんだ。

彼の著書ではグラハム・ナッシュが一時のガールフレンドだったリタ・クーリッジのために同じ事を主張したとある[7]。「タイム」はプリシラ・クーリッジブッカー・T・ジョーンズの1973年のアルバム『Chronicles』で発表された[8]

ゴードンはデレク・アンド・ザ・ドミノスのアメリカとイギリスのツアーに参加した。バンドはセカンド・アルバムが完成する前の1971年春に解散した。

1970年、彼はジョー・コッカーの『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』ツアーに参加し、デイヴ・メイソンのアルバム『アローン・トゥゲザー』に参加した。彼はコッカーとツアーをしている間、同じくツアーに参加していたクーリッジをホテルの廊下で殴り、2人の関係を終わらせたと伝えられている[9]

1971年、彼はトラフィックと活動して2枚のアルバムに参加した[注釈 1]。同年、ハリー・ニルソンのアルバム『ニルソン・シュミルソン』に参加し、「ジャンプ・イントゥ・ザ・ファイアー」でドラムソロを演奏した。

1972年、インクレディブル・ボンゴ・バンドのアルバム『Bongo Rock』に参加。LPバージョンの「アパッチ」での彼のドラムブレイクはラップミュージシャンによって頻繁にサンプリングされている[10]。またヘレン・レディのアルバム『私は女』でドラムを演奏した。

同年、フランク・ザッパの20ピースのビッグ・バンドである「グランド・ワズー」と、それに続く10ピースのバンド「プチ・ワズー」に参加した[注釈 2][11]。ザッパはステージで彼を紹介するとき、その若々しい容貌から、しばしば彼を「スキッピー」と呼んだ。おそらく彼のザッパとの最も有名なレコーディングは、1974年に発表されたアルバム『アポストロフィ (')』のタイトルトラックである。これは1972年11月にザッパ(ギター)、トニー・デュラン(ギター)、ジャック・ブルース(ベース)と行ったジャム・セッション[注釈 3][12]で、ブルースと彼がクレジットされた。

1973年、ジョニー・リバーズの「ブルー・スエード・シューズ」とアート・ガーファンクルの『天使の歌声』で演奏し、1974年までリバーズと一緒にツアーを行い、ライブ・アルバム『ラスト・ブギー・イン・パリ』に演奏が収録された。1974年、スティーリー・ダンのアルバム『プレッツェル・ロジック』に参加し、シングル・カットされた「リキの電話番号」を含むほとんど全曲でドラムを演奏した。1973年から1975年までサウザー-ヒルマン-フューレイ・バンドのドラマーとして、クリス・ヒルマンと再び仕事をした。1976年にはアリス・クーパーのアルバム『アリス・クーパー・ゴーズ・トゥ・ヘル』に収録された3曲でドラムを演奏した。

母親の殺害、有罪判決と投獄、そして死

やがて彼は統合失調症を発症し、母親の声を含んだ幻聴の症状を持った。彼は自分自身を飢えさせ、眠ったりリラックスしたりドラムを演奏したりできなくなった[13]。しかし医師は彼を正しく診断できず、アルコール中毒者用の治療を行った[要出典]

1983年6月3日、彼は72歳の母親オサ・マリー・ゴードンをハンマーで殴打した後、肉切り包丁で刺して殺害した。

彼は殺人で逮捕されてようやく初めて統合失調症と診断された。彼は声が母親を殺すようにと自分に言ったと主張した[10][14][15]。裁判所は彼が急性統合失調症であると認めたが、精神異常抗弁改革法によるカリフォルニア州法の変更のため、彼は精神異常抗弁を使用することを許可されなかった[13]

1984年7月10日、彼は16年の刑を宣告された[16]。1991年に最初の仮釈放の資格を得たが、仮釈放の聴聞会に一度も出席しなかったため、仮釈放資格は却下された。 2014年、彼は聴聞会への出席を辞退し、少なくとも2018年まで仮釈放を却下された。ロサンゼルスの副地方検事は聴聞会で、彼はまだ「深刻な心理的無能力」であり「薬を服用していないときは危険である」と述べた[17]。2017年11月、彼は統合失調症と再診断され、2021年3月に再取得した11回目の資格も却下となった[18]

2023年3月13日、カリフォルニア州バカビルにある医療および精神科の刑務所であるカリフォルニア医療施設(California Medical Facility〈CMF〉)に収監されたまま、死去[19]。77歳没[2]

ディスコグラフィ

ゴードンはその経歴の中で多くのミュージシャンの作品に参加した。以下はその一部である[20]

脚注

注釈

  1. ^ 1971年9月に発表されたWelcome to the Canteenはオリジナル・メンバーのデイヴ・メイスンを迎えたコンサートのライブ・アルバム。同年11月に発表されたThe Low Spark of High Heeled Boysは新作アルバム。
  2. ^ ザッパは1971年12月に自分が率いていたザ・マザーズ・オブ・インヴェンション(MOI)のロンドン公演で観客から暴行を受けて重傷を負ったので、MOIを解散して長期療養していた。1972年9月、彼はゴードンやセッション・ミュージシャンを迎えて総勢20名のザ・グランド・ワズー・オーケストラを編成してライブ活動を再開し、アメリカとヨーロッパで7回のコンサートを開いた。さらに彼は、ザ・グランド・ワズー・オーケストラからゴードンを含むメンバー数人を選び出して総勢10名のザ・プチ・ワズーを編成して、10月から12月にかけてアメリカとカナダでコンサートを開いた。21世紀になってザッパの遺族によって、ザ・グランド・ワズー・オーケストラのツアーのライブ音源がWazoo(2007年)、ザ・プチ・ワズーのツアーのライブ音源がImaginary Diseases(2006年)、Little Dots(2016年)に収録されて発表された。
  3. ^ 1972年11月8日、ザッパはニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオで、ゴードン、ゴードンの友人で当時ウエスト・ブルース・アンド・レイングのアメリカ・ツアーに参加していたブルース、ザ・プチ・ワズーのメンバーだったトニー・デュラン(ギター)とジャム・セッションを行なった。この時の音源の一つが、1974年に発表されたザッパのソロ・アルバム『アポストロフィ (')』のタイトル曲になった。この時の別の音源に含まれたゴードンの演奏に後日ザッパがダビングを行なったものが'Down In De Dew'として、ザッパの遺族が発表したLäther(1996年)に収録された。

出典

  1. ^ Jim Gordon - Biography & History”. AllMusic. 2018年1月25日閲覧。
  2. ^ a b 元デレク・アンド・ザ・ドミノスのドラマー、ジム・ゴードンが死去”. BARKS (2023年3月16日). 2023年3月16日閲覧。
  3. ^ greggp (2009年7月14日). “Happy Birthday Jim Gordon”. Daily Kos. 2012年7月8日閲覧。
  4. ^ Jim Gordon”. Drummerworld. 2012年7月8日閲覧。
  5. ^ Kent Hartman, The Wrecking Crew: The Inside Story of Rock and Roll's Best-Kept Secret (Macmillan Publishers, 2012), ISBN 978-0312619749, p. 235. Excerpts available at Google Books.
  6. ^ Layla’s 40th: The Where’s Eric! Interview With Bobby Whitlock”. 2011年4月26日閲覧。
  7. ^ "Wild Tales" - Crown Publishing Group
  8. ^ http://www.discogs.com/Booker-T-Priscilla-Jones-Chronicles/release/2285764
  9. ^ Getlen, Larry (2016年4月3日). “Rita Coolidge was muse to rock icons - and this is how they treated her”. New York Post. https://nypost.com/2016/04/03/rita-coolidge-was-muse-to-rock-icons-and-this-is-how-they-treated-her/ 2016年4月4日閲覧. "They walked into the hallway, and something in Coolidge's mind told her this might be when Gordon would propose. As they got to the hallway, Coolidge slightly nervous in anticipatory delight, Gordon "hit me so hard that I was lifted off the floor and slammed against the wall on the other side of the hallway." As his fist met her eye, she "literally went flying" and was knocked unconscious. Then Gordon walked back into the room - alone - as if nothing had happened. The relationship was over, although Gordon was not removed from the tour - everyone worked to make sure she and Gordon were separated, she writes, and that she was safe." 
  10. ^ a b Hermes, Will (2006年10月29日). “All Rise for the National Anthem of Hip-Hop”. New York Times. https://www.nytimes.com/2006/10/29/arts/music/29herm.html 2006年11月1日閲覧。 
  11. ^ Ulrich (2018), pp. xxxii–xxxiii.
  12. ^ Ulrich (2018), p. 23.
  13. ^ a b The Haunted Talent Behind 'Layla' Jim Gordon Won A Grammy For Co-writing The Song That Eric Clapton Reprised In The '90s. But Honors Mean Little. Gordon Is Serving Time For The 1983 Slaying Of His Mother.”. The Philadelphia Inquirer. 2011年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年5月1日閲覧。
  14. ^ Robinson, John (2011年3月16日). “The curse of the Dominos”. Daily Telegraph (London). https://www.telegraph.co.uk/culture/music/rockandpopfeatures/8386038/The-curse-of-the-Dominos.html 2011年5月1日閲覧。 
  15. ^ Kirby, Terry (2006年11月11日). “Bloc Party's drummer is latest casualty of toughest job in rock”. The Independent (London). オリジナルの2012年2月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120221153130/https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/news/bloc-partys-drummer-is-latest-casualty-of-toughest-job-in-rock-423852.html 2011年5月1日閲覧。 
  16. ^ “Names.. In The News”. The Union Democrat. (1984年7月11日). https://news.google.com/newspapers?id=iRhZAAAAIBAJ&pg=4202,1079941&dq=jim-gordon+murder&hl=en 2011年5月1日閲覧。 
  17. ^ Flanary, Patrick (May 17, 2013) Jailed Drummer Jim Gordon Denied Parole Rolling Stone Magazine. Retrieved June 28, 2015.
  18. ^ Derek and the Dominos' Jim Gordon, Jailed for Killing His Mom, Denied Parole for Fear 'He'd Hurt Somebody Else'”. 2018年4月30日閲覧。
  19. ^ CDCR Inmate Locator”. California Department of Corrections & Rehabilitation (2018年1月14日). 2018年1月14日閲覧。
  20. ^ Jim Gordon credits”. AllMusic. 2019年9月11日閲覧。
  21. ^ Power To The People. JohnLennon.com. Retrieved June 26, 2020.
  22. ^ Myers, Marc, Anatomy of a Song:The Oral History of 45 Iconic Hits That Changed Rock, R&B and Pop, Grove Press, New York, 2016 p. 103

引用文献

  • Ulrich, Charles (2018), The Big Note: A Guide To The Recordings Of Frank Zappa, New Star, ISBN 978-1-55420-146-4 

外部リンク