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年末年始特集
ニュースで回顧

宮沢喜一元首相が死去

2007年06月29日

 「55年体制」下の自民党単独政権時代の最後の首相で、保守護憲派として知られた宮沢喜一(みやざわ・きいち)さんが28日午後1時16分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。87歳だった。通夜は30日午後6時から、密葬は7月1日正午から、いずれも東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で行われる。喪主は妻庸子さん。自宅は東京都渋谷区神宮前6の34の1。

 91年10月、海部俊樹氏の後継を争う自民党総裁選で渡辺美智雄、三塚博両氏を抑えて当選。翌月、第78代首相に就任した。国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、カンボジアに自衛隊を派遣した。

 93年に政治改革法案をめぐって「どうしてもこの国会でやらないといけない。やりますから。私はうそをついたことはありません」と断言。しかし同法案は不成立となり、逆に宮沢内閣不信任決議案が可決され、自民党の分裂、野党転落のきっかけをつくった。総選挙後の8月に退陣。在任期間は1年9カ月だった。

 19(大正8)年、東京生まれ。41年東大法学部卒。翌年大蔵省に入省し、池田勇人蔵相の秘書官を務めた。池田氏の右腕としてサンフランシスコ講和条約の下交渉に携わった。池田氏の勧めで政界入りを決意。53年、参院で初当選。67年、衆院にくら替えし、以来連続12回当選。経企庁長官、通産相、外相、官房長官、自民党総務会長などを務めた。通産相として70年の日米繊維交渉にあたったが決裂。75年の外相時代には、金大中氏事件のいわゆる第2次政治決着を図った。

 87年の党総裁選では、竹下登、安倍晋太郎両氏の「安竹宮」の一角として、中曽根元首相の後継を争った。だが、3氏の候補者一本化調整は不調に終わり、中曽根氏に調整を一任。中曽根氏は竹下氏を後継に指名した。竹下内閣では副総理・蔵相として入閣したが、リクルートコスモスの未公開株の譲渡をめぐる問題に元秘書が関与。この問題をめぐる衆院予算委などでの説明が二転三転したことの責任を問われ、88年12月に辞職した。

 98年7月の小渕内閣発足で、当時の金融危機に対する「切り札」として小渕首相に請われて蔵相に就任。積極財政で景気を刺激するケインズ政策を総動員し、森内閣が退陣する01年4月まで2年9カ月務めた。03年10月の衆院解散で、小泉首相の要請を受け入れて政界を引退した。

 米有力紙が「日本の有力政治家の中で最も英語が達者」と折り紙をつけた「国際派」。キッシンジャー元米国務長官、シュミット元西独首相、リー・クアンユー元シンガポール首相ら海外の要人とも交流が深かった。一方で、「精神の支えは漢学の素養にある」と述べる一面もあった。

 常に憲法全文をポケットに入れて持ち歩く「護憲派」。05年1月に発足した自民党新憲法起草委員会には小委員長として加わり、同党の憲法改正草案づくりに協力した。

(2007年06月29日 朝日新聞朝刊)

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