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巧 舟 スペシャルインタビュー!

ひそかにカプコンの歴史を紹介するマイカプコンコラム「カプコン伝説」。
その第34回での巧さんインタビュー「海をも越える大逆転」は、実は序章だった!?
今回ここに、完全バージョンを公開です!
巧ディレクターのカプコン入社から『ディノクライシス』を経ての『逆転裁判』の立ち上げ、
そして、カプコン伝説で語られた『大逆転裁判』の開発秘話に加え、
なんと『逆転裁判』ナンバーシリーズを踏まえたうえでの『大逆転裁判』のキャラクター創りに言及!
超ボリューム、1万字越えのインタビューです!!

巧 舟(たくみ・しゅう)
1994年カプコン入社
代表作:『逆転裁判』初期3部作(2001~2004)
『ゴースト トリック』(2010)
最新作『大逆転裁判 -成歩堂龍ノ介の冒險-』(2015)
それぞれ企画、シナリオ、ディレクターを務める

――まず最初に、巧さんがカプコンに入社してからの経歴をお伺いできればと思います。
逆転裁判にいたるまでは、どのようなゲーム開発に関わられたのでしょうか?

巧:カプコンには94年に入社して、今年で21年目です。
入社当時の記憶は…当時の新人は、最初に“研修室"というところで開発の勉強するんです。
そこで、優秀な人から順番に開発チームに引き抜かれていくわけですね。
ぼくの同期は、コンシューマー部署だけで12人いたんですが、『バイオハザード』チームだとか『ブレス オブ ファイア』チームに皆が引き抜かれていく中、半年から一年ぐらい…けっこう最後まで、研修室の席を守っていましたね(笑)。
最終的に、とあるチームに拾われて、最初に関わったのは、95年に発売された『学校のコワイうわさ 花子さんがきた!!』です。
なんと、これは『ストリートファイター リアルバトル オン フィルム』という格闘ゲームとともに、カプコンの“プレイステーション参入 第一弾"という、記念すべきゲームだったのですが…いまだにリメイクや移植のウワサをまったく聞かないという、まさにマボロシの一品ですね(笑)。

――…権利的な問題なのかもしれませんね(笑)。

巧:その『花子さん』の開発チームに、企画マンとして参加しました。
目ざしていたジャンルとしては、ホラーとか怪談とか、そういう方向性だったのですが、なにしろ企画は、ゲームのコンセプトをまったく理解していないダメ新人のぼく一人しかいなかったので、“笑わせよう"という意図ばかり見え隠れするホラーゲームという「怪作」に仕上がりました。
ディレクターは別にいたのですが、他のタイトルと掛け持ちされていたので、監視の目を盗んで、ずいぶん自由に作りましたね(笑)。

――(笑)。

巧:それから2~3年ブランクがあるのですが、この時期は、企画が立ち上がっては頓挫、ということを繰り返していた時期でした。
“音楽ゲーム"や“教育ゲーム"など、いろいろな方向性の企画があったのですが、この時期に『逆転裁判』の原型となる“探偵ゲーム"の企画書も作りました。
その後、当時の上司が辞めてしまって、バイオハザードチームのプロデューサーに拾ってもらう形で、第四開発部(当時)に所属することになりました。

――聞くところによると、『バイオハザード2』の開発にも関わられたとか?

巧:関わったのは、『バイオハザード2』のプロトタイプで、結局発売されなかった、カプコン社内で『バイオハザード1.5』と呼ばれるバージョンですね。
当時、『ディノクライシス』の企画を進めていたのですが、『バイオハザード2』開発がどうにも大変な状況ということで、ぼくたちのチームが一時解体されて、3ヶ月だけ参加しました。とにかく人手が足りなかったんですね。どれだけ助けになったかは…よくわかりません。

その後、結局『バイオハザード2』は一度開発をストップして、最初から作り直して大ヒット作になりました。
でも、ぼくたちが関わった部分は、残念ながら残っていませんね。別にいいんですけど(笑)。

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こちらは、作り直して発売された『バイオハザード2』の画面。
『バイオハザード1.5』は、完成の70%まで作られたのですが、より良い『2』の制作のため、開発中止となりました。

――その後、『ディノクライシス』シリーズをご担当されることになります。

巧:そうですね。『ディノクライシス』のディレクターに指名されたのですが、今思うと、“ディレクター"の意味が分かっていなかった。
その結果、チームを混乱させてしまって、ディレクターをクビになってしまったという…(笑)。
その後は、企画マンとして参加し、前半のステージを担当しました。

当然、大きな挫折だったわけですが…ただ、今考えると、必要な挫折だったと思います。
その後『ディノクライシス2』を作ることになったのですが、なぜか、またディレクターに指名していただいて。
プロデューサーのフトコロが広いのか、単に忘れっぽいのか分かりませんが(笑)、とにかく、『1』のときの自分を徹底的に反省して、仕事のやり方や考え方を変えました。
続編ということもあって、なんとか最後まで作ることができました。
『2』は今でも、ゲームとして気に入っているし、もう一度チャンスをもらえた恩は、今も忘れません。

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巧さん初のディレクター作品『ディノクライシス2』。『1』のシステムを変更、アクション色の強いアドベンチャー作品です。

巧:また、このとき脚本をカプコン子会社の“フラグシップ”が担当されていたのですが、シナリオ発注も含めて脚本制作の過程をいろいろ勉強することができて、これが後々、『逆転裁判』のシナリオ制作の際、大いに役に立ちましたね。

――なるほど。いろいろな経験が、すべて『逆転裁判』の制作に集約されることになったんですね。

『逆転裁判』始動!

――さて、『ディノクライシス2』開発後、ついに『逆転裁判』の企画が立ち上がることになります。

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7人という少人数チームで作り上げた『逆転裁判』(画面はニンテンドーDS『蘇る逆転』)。
口コミなどで、じわじわと評判が広がっていくタイトルとなりました

巧:「半年の時間をあげるから、好きなものを作っていい」と言われたんですね。これまでも何度か話していることですが、“ティラノサウルス”と“ベロキラプトル”の見わけもつかなかったほど、恐竜の知識がまったく無い状態から『ディノクライシス』シリーズを3年ほど頑張ったので、ちょっとしたボーナスだったのかもしれません。
そのころ、若手の育成枠として、“少人数・低予算で新しいゲームを作るプロジェクト”がいくつかあって、その一つとして『逆転裁判』が立ち上がりました。
さすがに半年、というわけにはいかず、結局完成まで10ヶ月かかりましたけど、これはなかなかすごい記録だと思いますよ。

――『逆転裁判』は、最初は“ゲームボーイアドバンス”(※2001年発売の携帯型ゲーム機)というハードでしたが、初めてのハードでの開発は、いかがでしたか?

巧:じつは、当初は“ゲームボーイカラー”(※1998年発売の携帯型ゲーム機)で作るという予定だったんですが、ちょうどその頃、最新ハード“ゲームボーイアドバンス”が出る、というウワサを聞いて、見せてもらったんですね。
まだ発売前で本体もなくて、基板の状態だったんですが、そのゲーム画面がものすごくキレイで、チーム一同、感動したんです。
『ロックマンエグゼ』のプロジェクトが先行していて、その画面も見せてもらったんですが、本当にインパクトがありましたね。
『逆転裁判』というタイトルに、まさにピッタリのゲーム機だな、と思いました。

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カラーの表現力が上がったゲームボーイアドバンスの機能を受け、カラフルな画面作りが可能になりました。(画面は『蘇る逆転』)

――初代の『逆転裁判』は、7人の少人数プロジェクトということでした。途中で抜ける人が出たり、かなり大変な進行だったようですね。

巧:そうですね。
まだ経験値の浅い新人ばかりで構成されたチームだったんですけど、7人しかいないワリには、いろいろありましたね(笑)。
ただ、当時は会社のスミで、コッソリ作っていたようなゲームだったので、プレッシャーなどは一切なくて、のびのびと制作していました。
みんな若手だから、自分たちの限界も分からないまま全力で作っていて、今考えると、グラフィック素材をたった2人で全部描いていたり、プログラマーも二人ですべてやりくりしていましたね。
ぼくはぼくで、企画とシナリオとディレクターをすべて、一人でやっていたし。
そのころは、まさかここまで存続するタイトルになるとは、思いませんでした。

――『逆転裁判』シリーズは、現在はカプコンを代表するタイトルのひとつになりましたが、『2』を作るときも、けっこう難しいところがあったようですね。

巧:制作当時は当然、続編の話なんかあるはずもなく、ぼく自身、1作きりのつもりでした。
でも、完成したゲームを気に入ってくれたプロデューサーが、周囲をかなり強引に説得して、続編の制作を決めてくれたんですね。「3作までは作ろう」と言って。
当時のぼくは、1作目ですべてのアイデアを使い切った気持ちだったので、3つも作れるかな…と大いに迷った記憶があります。
でも、それが無ければ、このタイトルは1作かぎりで終わって、ぼくが今、こうしてお話しすることもなかったと思います。
今でも、当時のことは本当に感謝しています。

――なるほど。それはイイお話ですね!

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プロデューサー陣の陰のバックアップを受け、『逆転裁判』は三部作として作られる形になります。

――それから巧さんは『逆転裁判4』、『ゴースト トリック』を制作後、『レイトン教授 VS 逆転裁判』を作って、『大逆転裁判』につながります。『逆転裁判』が2001年に発売されて、今年で14年ですが、これだけ長いシリーズになったことに関して思う部分はありますか?

巧:“感謝”と“とまどい”の両方がありますね。
『逆転裁判』はもともとゲームボーイアドバンス向けのゲームというところで、小学生を視野に入れて開発しなければ…という検討から入ったゲームだったんです。
でも、発売して14年、遊んでくれる層も子供から大人まで、本当にいろいろな世代に広がりましたね。
ハードも、ニンテンドーDSや携帯電話、スマートフォンなどに移植されたりして、より多くの方に遊んでもらえて。
移植しやすいということもあって、地道に長い時間をかけて広がっていったな…という印象があります。
売上や反響という意味では、『逆転裁判4』のとき、大きく広がった印象がありますが、その頃から、制作の世代交代も含めて、プロジェクトの全貌がつかめなくなるほど大きくなっていって、とまどう部分もありましたね。
また、その頃から、オーケストラコンサートや宝塚歌劇などの舞台、映画化など、ゲーム以外のさまざまなプロジェクトが展開されるようになって、本当にすごいことだと思いますね。
遊んでくれたみなさんのおかげで、ぼくもいろいろな経験をさせてもらって、本当に感謝しています。
現在、行われているSCRAPさんの“リアル脱出ゲーム”とのコラボレーション『倫敦大法廷殺人事件』もそうですが、いろいろな未経験・未体験のものに触れ、関わることで、すごく刺激になります。
今となっては『逆転』は大きなプロジェクトで、関係者の中には顔を合わせたこともないスタッフもいると思いのですが、シリーズに元気を与えてくれている方たちには、感謝の言葉しかありません。いつも、本当にありがとうございます。

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